物語の維持がとても大変というかもうやめごろ

ちょうど海外出張から帰ってきて空港で流れてきたニュースで柔道の体罰事件が話題になっていました。

朝日新聞デジタル:女子柔道選手15人、代表監督を告発 パワハラ行為訴え - 社会
もちろん、体罰はダメですよ。それに日本代表とかトップクラスの選手であればそれなりに自主的にモノを考えて自律的に稽古もできるはずで、そういう人達からNOと言われた時点で辞めなきゃいけないとは思うわけです。僕のような末端で柔道をやっていたような奴が「あいつむかつく」とか言うてるのではないですから。

それを踏まえた上で、証言としての暴力の内容はもちろんひどいんですけれども、その暴力の一端として映像が流れているのを見ると、これって普通の人がみたら暴力なのか…と思うところがあったりもするわけです。

たとえば、試合会場で選手のお尻あたりを蹴る映像がありますが、これってどう考えても痛くない蹴り方ですよね。だから蹴ったことそのものはそんなに問題には思えないのですよ。むしろ状況によってひどく精神的に追い込むことに繋がる可能性があるので背景のほうが重要。同じ強さの蹴りでも全然問題ない場合があるはず。というか、道着を着ているときのあの程度の蹴り方はコミュニケーションでもありえる。

…と感じるのは、僕もすでに柔道界に毒されているのかもしれないなぁ、と思うところもあるのです。そもそも柔道って格闘技ですので、格上の人に柔道のルール内でボッコボコにされることもあるし、「そこ絞めなくていいんちゃう??」みたいな時に首を絞められたりすることもあるわけです、別に反則じゃないやり方で。それに比べたら、映像のレベルで蹴られるなんてたいしたことないよなぁって思うのですね。あと例えば高校時代、合宿にいくとなぜか竹刀を持った他校の先生がいたりしましたし(ただし、ダメな部分を指して指摘するのに使っているのであって痛さを感じる強さで殴っているところは見たことないですよ)。本人がもう限界と感じているときに強い言葉でもう一歩踏み込ませることで壁を突破できる可能性も感じます。ただしこれらをされた人が体罰、暴力だと主張すれば体罰にあたると思います。

この辺りは価値観というか物語というか、強くなるために追い込みが必要で、そのためにこの程度の体罰が有効だ、というストーリーを共有できる人たちの間では問題ないのかも知れませんが、そうじゃない物語を生きている人が共存するとなると途端に問題になる。

古い体育会系の物語には、指導者や先輩が高圧的なやり方、怒鳴ったり殴ったりしながらでも無理やり選手のモチベーションを高めてその才能を伸ばしてやらなければならない、という部分があります。でもたぶん、そうじゃないんだな。そんなやり方をしなくちゃ強くなれないなら強くならなくていいんだ、となっていくべきなんじゃなかろうか。

…とか思っていたらこれ
峯岸みなみ丸刈り謝罪  研究生に降格 - AKB48 - 芸能ニュース : nikkansports.com
これも結局、AKBのメンバーは恋愛をしませんという物語を作って本人たちと周りの大人とファンでそれを維持していたわけだけれども、もっとも大変な部分を10代20代のいちばん恋愛したい女の子が担っているっていうのと、世の中のほぼ全員がカメラ付き携帯を持っているという監視社会の中で、そもそも物語の維持ができない構造になっているわけですよ。だからこそその物語は維持できている限り強い力を持つわけですが、でももう無理だよねぇ。ファンも周りの大人も彼女たちをそんな縛りから解放してあげたらいいのにね。でもそうなると一人で何百枚もCDを買う奴がいなくなるか…商売的には難しいかもしれんね、むぅ。

書きながらふと思い出したのが筒井康隆の20000トンの精液という話。

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ざっくり思い出すと、立体映像を質感をもって再生できるという世の中で、アダルトビデオは実際に女優とセックスする感覚まで実現できるという。で、人気女優は実は処女で、あるとき初体験を迎えたらセックスに変な癖がでて人気がなくなるとかそういう話。まぁ、AKBとファンの関係がそんな風にも見えるね。